沈潜の風(ふう)。普段は目立たずとも地道に力を養い、いざという時に、その力を大いに発揮する堅実さ-。明治の政治家で、漢学者でもあった副島種臣が、庄内人を評した言葉として今に伝えられています。その気質は、作家・藤沢周平の作品の登場人物にも重なり、その気風を生んだ土壌としての藩校「旧致道館」も注目されています。藤沢作品片手に訪れる人も多いという致道館はどんなところで、どんなことを学んでいたのでしょうか。知っているようで知らなかった致道館を、もう一度訪ねてみました。

致道館は、庄内藩9代藩主・酒井忠徳(ただあり)が、士風を刷新し、藩政立て直しの人材を育成する目的で、文化2年(1805年)に創設した藩校です。当初は大宝寺地内に建てられましたが、文化13年に10代忠器(ただかた)によって現在地に移されました。敷地は現在の約2倍もあり、矢場や馬場などが付設されていたそうです。
現在残っているのは、孔子を祭った聖廟、廟門、執務などを行った講堂、藩主がおいでの際滞在したお入間(おいりのま)、表御門、東御門、西御門。お入間は、戊辰戦争に敗れた庄内藩が、官軍参謀黒田清隆に降伏し、謝罪した場所で、明治の初めには三島通庸が県令室として使っていました。藩校の建物が現存するのは、東北ではここが唯一だそうです。

全国に280箇所ほどある藩校の多くが朱子学を藩学とするなか、庄内藩は荻生徂徠(おぎゅう・そらい)の提唱する徂徠学を教学とし、明治6年(1973年)に廃校になるまで、これを堅持しました。生徒の天性に応じて、長所を伸ばし、知識の詰め込みよりも自学自習を重視したのも、徂徠学の教えによるものなのです。
徂徠学は、古文辞学ともいわれ、古い辞句や文章を読み、後世の注釈にとらわれることなく、孔子の教えを直接研究しようとする学問でした。藩校ができる数十年前から徂徠に師事した藩士がおり、徂徠に送った質問状に直接徂徠が答えた手紙は、徂徠学の特色がよく表されているとして、致道博物館に保存されています。

致道館には、数え年10歳以上の上級武士の子供が入学しましたが、一般庶民の子供でも、特に成績優秀であれば入学が認められたそうです。現在の小学校に当たる「句読所(くどうしょ)」から、大学に当たる舎生まで5つの等級に分かれており、進級は年に数回行われる学力試験の成績に応じて、年齢に関係なく分けられたそうです。勉強する本は四書(大学・中庸・論語・孟子)五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)など中国の本が多く、句読所では先生の講義を聞いていたのが、中学校に当たる「終日詰(しゅうじつつめ)」では、1人勉強が主流となり、わからない点は先生に質問しに行く、というものでした。 卒業後は、才能や個性に応じて、藩の仕事が与えられたそうです。
このほか、入学する前の子供たちが集まって、朝の7時から8時まで読み方だけを習う「朝句読」というものがありました。これは、現在も致道博物館で行われている、論語の素読会の原型となっています。

(鶴岡市観光連盟サイトより)

荻生徂徠に学ぶ
徂徠の教えについて、このような逸話が残っています。
元禄9年に川越領主だった柳沢吉保に仕えて間もなく、農地を捨て、妻を離縁し、母と流浪の旅に出た農民がいました。途中で母が病気になったので、そのまま母を放置した農民が、親棄ての罪人として捕らえられました。吉保は、その農民をいかに罰するかをお抱えの学者に相談したところ、徂徠は、農民が領内から出るのは、代官、郡奉行(こおりぶぎょう)の罪、その上は家老の罪であると伝えたところ、もっともだと思った吉保は、その農民に母の養育費を与え、帰したそうです。人々の生活の善し悪しは、政治によって左右され、政治の責任は為政者にあるという徂徠の考えをうかがうことができます。
今の時代の政治家にも、心に留めてほしいエピソードではありませんか。
弘法も筆の誤り?

致道館の講堂入り口に掲げられている額の文字に注目してください。「致」の文字が「至」と「支」からできているように見えます。「致道」は論語の一節を用いているので、旧字を使ったとしたら「至」と「攴」を使うのが正しいように思うのですが。
この書は、致道館の助教で、藩医でもあった重田道樹の筆によるもの。重田は、これを書くに当たって下書きをたくさんしたそうです。致道博物館常務理事で鶴岡書道会顧問でもある酒井忠治氏に訪ねたところ、「『攴』が正しいと思う。長年見慣れてきた文字だが、今まで特に問題にしたことはなかった」と話しておられました。重田さんの「筆の誤り」だったのでしょうか。その後、調べてみたところ、『五体字類』(西東書房・大正五年刊)という難しいに字典に『支』が出ていることがわかったそうです。
今なお続く学問への気風

致道館の教科書を出版するために作製した漢籍版木は、県の有形文化財に指定されていますが、作られた317枚すべてが残っているのは大変貴重です。この版木から印刷したものは、現在も使われているんですよ。小学生を対象に、致道博物館が開催している論語の素読会の教科書がそれ。その証拠に、冊子の中央部分に「致道館蔵板」の文字が見えました。そういえば、小学校のころ、素読会に参加している同級生の男の子が、まぶしく見えたっけ。江戸時代からの学問への気風を今に伝えている素読会、すばらしいことです。
「藩校 致道館」と「致道博物館」

よく観光客が混同するのが、「致道館」と「
致道博物館」の違い。観光施設としての致道館は、これまで見てきたように旧庄内藩の藩校のことで、江戸後期から明治にかけて、藩の政治を担う立派な武士を養成するための学問所でした。東北では唯一現存する藩校として、見学する価値のある名所でもあります。

致道博物館は、旧庄内藩酒井家の御用屋敷だったところで、昭和25年に酒井家が寄付し、藩の宝物や、地域の歴史的建造物、民具や農具・漁撈用具などを展示する施設として親しまれています。致道館で使用した祭器や漢籍版木などの文化財も保管しています。致道館の聖廟に展示してある祭器や聖像などはレプリカなんだそうですよ。